あの鐘がー方広寺ー
- 2019.08.31
- 東山区
1586(天正14)年、松永久秀(まつながひさひで 1508〜1577)の焼き討ちで焼失した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。
1595年に木造の大仏(高さ19m)は完成するものの、翌1596年の慶長伏見地震により倒壊。秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に激怒。代わって善光寺如来を大仏殿に遷座しますが、病に臥し、如来の祟ではないかということで信濃国善光寺へ戻されることになりました。しかし、その翌日に秀吉は没しました。
そのあとを継いで豊臣秀頼(1593〜1615)が大仏建立。大仏に金箔を押すところまで完成させ、同時に1614(慶長19)年、梵鐘もできました。
大仏開眼供養の日を待つばかりとなっていましたが…その鐘の銘文が「大坂の陣」の発端のひとつとなってしまいます。
右上の白く塗られた部分に「国家安康」、その次の行に「君臣豊楽」の文字があります。家康の家と康を分断し、豊臣を君主とし、徳川家を冒涜するものとみなされたのでした。
1615年の大坂夏の陣で大坂城落城とともに秀頼と母淀殿は自害、豊臣家は滅亡します。秀頼22歳でした(家康とは50歳差)。
2016(平成28)年の大河ドラマ「真田丸」では秀頼役を中川大志(1998〜)さんが演じていたのが記憶に残っています。秀頼の正室である家康の孫・千姫(1597〜1666)役は永野芽郁さんでした。
秀頼には側室・伊茶が生んだ国松と母親も俗名も不明な子女がいました。
国松は1615年に六条河原で斬首されます(享年8歳)。もう一人の女の子は千姫の養女として寺に入ることを条件に助命され、縁切り寺で有名な鎌倉の東慶寺に入り、天秀尼と名乗り余生を送られました(享年37歳?)。
鐘の前にしばらくいたのですがずっと強い雨が降ってました。
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