長谷川等伯「楓図」

智積院受け付けの北隣にその建物はあり、国宝の障壁画が目の前に広がります。



上は長谷川等伯作「楓図」、右下は等伯の長男久蔵作「桜図」です。ともに国宝で、豊臣秀吉が3歳で亡くなった愛児(母は淀殿)鶴松の菩提を弔うために建てた祥雲禅寺の障壁画として描かれました。

長谷川等伯(はせがわとうはく 1539〜1610 72歳)は石川の七尾生まれ。20代から日蓮宗の仏画を描いていましたが、養父母の死を機に1571年頃、妻と息子久蔵(きゅうぞう 1568〜1593 26歳)を連れて上洛。狩野派など諸派の画風を学び、千利休や秀吉らに重用されました。1590(天正18)年、狩野永徳(1543〜1590 48歳)急死。

1591(天正19)年、祥雲禅寺の障壁画制作を長谷川派が引き受け、秀吉に気に入られ、知行200石を授けられます。 同年、千利休切腹(1522〜1591 70歳)                  1593(文禄2)年、久蔵死去(享年26歳)

桜図は久蔵25歳の作、楓図は久蔵が急逝した翌年に等伯(56歳)が描きました。

1610(慶長15)年、家康の要請により、次男・長谷川宗宅(?〜1611)を伴い江戸に向かいますが旅中で発病。江戸到着後2日目に病死します。

撮影ができないので障壁画のダイナミックさが伝わらなくて残念!

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