後白河天皇陵ー法住寺

智積院の南隣にあの後白河天皇の御陵があります。今回は入れました。





第77代後白河天皇(ごしらかわてんのう 1127〜1192 66歳)といえば、相手の顔色を伺って都合よく態度を変えることから、「日本一の大天狗」と源頼朝があだ名をつけた天皇です。また、平清盛に蓮華王院(三十三間堂)の造営を命じた天皇でもあります。

御陵の西側に法住寺があります。少し変わった入り口ですが竜宮門といいます。



法住寺は989年に藤原為光(ふじわらのためみつ 942〜992 51歳)によって創建されました。

為光は985(寛和元)年の6月に妻を亡くし、翌年の7月には第65代花山天皇(968〜1008 41歳)に入内した息女も妊娠中(享年17歳)に失ってしまいます。その御二人の菩提を弔うために建てられたお寺です。

花山天皇は彼女の死を悲しみ、宮中を抜け出して山科の元慶寺で出家します。

『大鏡』(おおかがみ 作者不明 平安時代後期に成立したとみられる歴史物語)によれば藤原兼家(ふじわらのかねいえ 929〜990 62歳 藤原道長の父)が孫を即位(のちの一条天皇)させるため陰謀を巡らせたと伝えています。

法住寺は1032(長元5)年に焼失。

その後、院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」が営まれました。しかし、木曽義仲(1154〜1184 31歳)によって焼き討ちされ、数年後、後白河上皇も崩御。

法住寺は後白河上皇の御陵を守る寺として存続。明治時代以降は御陵と寺が分離されて現在に至ります。



寺内の「身代わり不動明王」像は円仁の作と云われ、後白河上皇の信仰篤く、義仲の放火のさいに上皇の身代わりとなったとされます。

また、「サザエさん」の作者・長谷川町子さんの菩提寺であり、長谷川氏が生前「平家物語」ゆかりの地を探訪した際に、法住寺を気に入り、没後に分骨されました。

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