菅原道真の通勤路?



綱敷行衛(つなしきゆきえ)天満宮は、
御前七条交差点を北へ向かうとすぐ右手に見えてきます。通るたびに「あみじきぎょうえ」と呼んでいました。

御前通りは平安時代の「西大宮大路」。北野天満宮の門前の通りなので、「御前通り」と呼ばれるようになりました。
御前通りは菅原道真(845〜903 5歳)が居住地であった吉祥院天満宮と右近の馬場(現在の北野天満宮)を行き来する時に通った道だと云われます。
綱敷行衛天満宮は松尾大社の境外末社でご祭神は菅原道真公です。
社殿に貼ってあった手作りの由緒書きによれば、               もともと綱敷天満宮・行衛天満宮に別れて、西七条村に祀られていましたが、1934(昭和9)年に合弁し、現在地に鎮座しました。綱敷天満宮には山のような榎の森があり、その傍らに広大な池もあり、花の絶えない景勝の地でした。
道真公はこの地にあった池でしばしば御舟遊をし、里人の用意した綱を円座としてその上に座し、詩歌を詠む姿を自ら描いて残したことが「綱敷天満宮」の由緒となっています。          とありました。
なお、「京都競馬場」は火事で焼失する1913年まではこの辺りから北の方にあり、競馬が行われていました。
「行衛天満宮(ゆきえてんまんぐう)」は現在地より西の方角にありました。
道真の乳母(巫女とも)「多治比文子(たじひのあやこ)」の家に因み創祀されました。
文子の家は「西靭負(にしゆきえ)小路七条」(現在の西大路七条附近)に面していたため「ゆきえてんまんぐう」と呼ばれるようになりました。
※文子の家は「文子天満宮(下京区間之町通花屋町下ル)」にあったとも云われ、転々としていたかもしれません。
道真の死後、942(天慶5)年、文子は「われを右近の馬場に祀れ」と道真の宣託を受けましたが、貧しかったために自宅に小さな祠を建てて道真を祀りました。この祠が北野天満宮の前身ですが祀った場所は現時点では特定されていません。
今回もこんな身近な場所にいろんな驚きが詰まっていました。

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