島原散策…リーズナブルな寿司ランチ



梅小路公園近く、市バス「七条壬生川」で下車。壬生川通から一筋西の道を500mほど上ルと左側に「島原大門」が見えてきます。

1589(天正17)年、豊臣秀吉の許可で二条柳馬場で開設しますが、御所に近いという事で、1602(慶長7)年に六条柳町(東本願寺北側)に移転。大いに繁盛しますが町中では風紀を乱すことから、

1641(寛永18)年に辺鄙な現在地に移動を命じられました。その移転騒動が数年前に起きた「島原の乱(1637〜1638年)に似ているとして「島原」と通称されてきました。

「見返り柳」は全国の花街や遊郭の入り口付近に植えられ、花街を訪れた人々が帰る時に柳のあたりで惜しんで後ろを振り返ったことに由来します。



大門をくぐり、最初の道を右に曲がると「輪違屋」(当主の姓→高橋)がありますが非公開です。元禄年間(1688〜1704)に置屋として創業し、現在の建物は1857(安政4)年に再建されました。 明治以降は揚屋も兼ねた現役のお茶屋さんです。

※置屋は太夫や芸妓を育て住まわせる家のこと。揚屋は置屋から太夫や芸妓を呼んで宴会を催すところ。座敷へ客人をあげることから「揚屋」と呼ばれるようになりました。

輪違屋さんには現役の太夫が活躍。毎年4月第3日曜日の吉野太夫供養では源光庵方面から常照寺への太夫道中が有名でしばしばテレビで放映されています。

「太夫」は優れた芸能・教養を持つ最高位の遊女とされ、特に島原の太夫は「舞踊」が必須で、和楽器や唄、書道、香道、華道といった諸芸に通じ、また、古典的遊び(貝合わせ、盤双六など)も必要とされました。

「吉野太夫(1606〜1643)」は初代から10代目まであったと伝えられ、2代目の吉野太夫は夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれ、才色兼備として26歳の時、4歳年下の豪商・灰屋紹益と結婚しますが38歳で死去。常照寺に赤門を寄進したといわれ、お墓もあります。



2010(平成22)年、歴史と文芸に育まれた島原界隈の向上のために町を石畳風に改修されています。



メインストリートに銭湯が。



ギャラリーを兼ねたカフェも。



安い!買いたかったのですが…今は使い道がないので残念。



梅小路公園前の七条通に出てきました。「志津屋」の隣に魚のお店が。







これで税込1100円です。小鉢の味つけが私好みでした。すし飯が控え目な味でしたがその分、ネタが味わえました。

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