壬生寺への道中あれこれ。



市バス「壬生寺道」下車。四条坊城にある元祇園梛(もとぎおんなぎ)神社です。

社伝によれば「869(貞観11)年に疫病流行により播磨国広峰から牛頭天王(スサノオノミコト)を勧請して鎮疫祭を行なった際、牛頭天王の分霊を乗せた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀。その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際に梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会の起源である」としています。明治までは小祠でしたが、明治7年と昭和4年に復興し現在の形が整られたとあります。

※八坂神社では広峰神社から勧請したスサノオノミコトについては否定。

左の社殿が梛神社。

主祭神 スサノオノミコト

右の社殿が隼神社です。大正期に遷座。

祭神はタケミカヅチノカミ

フツヌシノカミ

です。厄除け、疫病払いの神様です。





梛の葉は「引き裂こうとしてもなかなか切れない=縁が切れない」として縁起の良い木です。



神社東側の道を下ルとすぐ右手に、



京都鶴屋 鶴寿庵が見えてきます。このお店の左奥に、



新選組の屯所が置かれてた「八木邸」があります。

1863(文久3)年、第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち 1846〜1866 21歳)の上洛警護のため、清河八郎率いる浪士組が入洛しますが、当時、壬生村の郷士宅であった八木家は宿舎の一つとして使われました。

清河らは20日余りで江戸に戻りましたが芹沢鴨、近藤勇ら十数人は引き続き京都の警備のため残留し、京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり 1836〜1893 58歳 会津藩主 明治26年に肺炎にて死去)の配下に属し「新選組」と名乗り、1865(慶応元)年、西本願寺に移るまでの数年間この地で過ごしました。

島原の「角屋」でしこたま飲んだ局長の芹沢鴨(1832?〜1863 水戸藩士 新選組初代筆頭局長 剣豪)が暗殺された座敷を見学しました(室内は撮影禁止)。隣の部屋に逃げたものの机につまずいて刺されたとの事で…。実物の机が置かれていました。



その日は二人の年配の男性が交互に30分程解説していました。数名ずつでしたが途切れることなく訪れていました。

見学とお抹茶、屯所餅こみで1100円でした。



壬生菜入りのやや小ぶりの餅でしたが、あっさりめの餡が美味しく、5個756円の箱入りを買いました。



八木邸近くにある「新選組屯所旧前川邸」です。現在、個人の所有のため公開はされていませんが土祝祭日には土間を開放し、グッズを販売しているとありました。







五条七本松交差点です。西へ東へ、各4車線ある広い通りです。

1944〜1945年、軍需施設等への空襲による類焼を防ぐために全国で60万戸余りの家が壊されました。京都では五条通、堀川通、御池通沿いの家屋2万戸が取り壊されました(人力で?)。それ以前の五条通は幅5mしかなかったと云われます。以前、訪問先で滑走路に使われる予定だったと聞いたことがありますが真相はいかに。



五条七本松南東角にある宝くじ売り場。人生1回だけこの売り場で3000円当たりました。



五条七本松通下ルと両側に大きくりっぱな建物が幾棟か見えてきます。

「リサーチパーク」です。1987(昭和62)年設立された大阪ガスグループの京都リサーチパーク株式会社が運営。産業の研究開発やベンチャービジネス支援を目的とする施設とありました。





京都ばあばの守備範囲です。仕事中にお腹が空くと肉まんに見えてきます。大阪ガスのガスタンク???。



七条御前通近くの「武保あられ」の味千枚です。サラダ味で揚げ昆布がいっぱい入っています。税込500円ですが消費税が上がったのでこの値段で続けられるかわからないと言われていました。

こちらもよろしくお願いします↓

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村

京都ばあばイチ押し!京都観光のガイドブック