大覚寺その1…写経の寺

終点「大覚寺」下車、目の前に大覚寺が見えてきます。



「大覚寺」の前身は第52代嵯峨天皇(786〜842 57歳)の離宮「嵯峨院」です。876(貞観18)年に寺となりました。

宗派 真言宗大覚寺派

本尊 五大明王

初代門跡は恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう 825〜884 60歳)です。恒寂入道親王(出家前は恒貞親王)は嵯峨天皇の異母兄・淳和天皇の第2皇子であり、第54代仁明天皇(810〜850 41歳)時代の皇太子となりますが、権力闘争に巻き込まれて皇太子を廃されます(もともと親王自身、皇太子は望まれず)。恒寂入道親王は己の最期を悟ると衣服を浄め仏前に香華を備え、西方に向かって結跏趺坐の姿勢を取って入寂したと伝わります。



入り口には嵯峨菊が展示されてましたが、この菊を見たくて大覚寺を訪れました。



第108代後水尾天皇(1596〜1680 85歳)により下賜された宸殿です。天皇に入内した徳川2代将軍秀忠の5女・東福門院和子(とうふくもんいんよりこ 1607〜1678 72歳 後水尾天皇とは年の差11歳)が使用していました。4つの部屋からなり、特に狩野山楽筆による牡丹の間は33畳もあります。水平に上げられた戸は蔀戸(しとみど)といい、日光を遮り、寒さや風雨を防ぐ戸です。格式高い日本建築に見られます。



左の金色の金具中央には蝉の形をした金具が。



去年の台風21号で被害を受けた襖絵は修復中でした。



桜ではなく、「左近の梅」です。平安時代始めは中国風の影響が強く、中国からもたらされた梅が珍重されてました。



「村雨の廊下」です。縦の柱は雨、直角に折れ曲がる回廊は稲妻を表しています。刀や槍を振り回さぬように低い天井や、廊下はうぐいす張りです。

※村雨…むらさめ。強く降って、すぐ止む雨。にわか雨。通り雨。



あちらこちらと寺内は手入れが行き届いていました。



うさぎが…。



左手は「勅封心殿」です。1925(大正14)年に法隆寺の夢殿を模して建立されました。

天変地異で疫病に苦しんでいた平安時代、空海より般若心経を勧められ、嵯峨天皇は一文字書いては三度礼拝を繰り返して心経を書かれました。そのお経が収められています。また、薬師如来像や後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の般若心経も奉納されています。

右手の御影堂(御影堂)と五色の布で結ばれていました。

五大明王が安置されている五大堂(本堂)では写経、写仏ができます。

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