京都御所周辺…鴨沂(おうき)高校と法成寺跡

2018年11月に竣工された京都府立鴨沂高校です。鴨沂(おうき)とは鴨川のほとりの意味です

寺町丸太町を上った右手にあります。

1872(明治5)年、華族の子女が通う英学校と女子が手仕事を習得する女紅場が併存する女学校として開校しました。

日本最古の官公立の女学校です。

1923(大正12)年、京都府立京都第一高等女学校と改称。1948(昭和23)年に現在の学校名となりました。

男女共学校であり、2013(平成25)年からは制服が導入されました。



校舎の北側のグランド前にその石碑は立っていました。写真は途中で途切れてしまいましたが「従是東北法成寺跡(これよりとうほくほうじょうじあと)」とありました。





1019(寛仁3)年に出家した藤原道長が九体阿弥陀堂を建立し、以降は10年かけて金堂や五重塔などの壮麗な諸堂が並んだと云われています。

藤原道長(966〜1028 藤原北家御堂流 藤原兼家4または5男)が死期を悟った時、阿弥陀堂に入って、自らの手と阿弥陀如来像の手を五色の糸で結び、北枕西向きに横たわり、居並ぶ僧が念仏を唱える中、自身も静かに経を唱えながら旅立ったとされます。

3人の娘を天皇に嫁がせ、栄華を極めた道長でしたが、藤原実資(ふじわらのさねすけ 957〜1046 90歳!)の『小右記(しょうゆうき)』によれば、道長は50才過ぎてから急激に痩せ、しきりに水を飲むようになり、やがて、視力が衰え、激しい胸痛に苦しみ、最後には背中に大きな腫瘍ができ(その治療のための鍼治療が壮絶な痛みを伴う)、鍼治療を始めてから数日後にこの世を去ったと書かれています。

度重なる火災や地震で再建されてきましたが、14世紀には廃れ、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅しました。

発掘調査では遺構は見つかりませんでしたが鴨沂高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦が出土しています。

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