京都御所周辺…拾翠亭



市バス「烏丸丸太町」下車。北側の道を東に向かうと「間之町口」があり、今回はそこから京都御苑に入りました。

「拾翠亭(しゅうすいてい)」は五摂家のひとつであった九条家の別邸として、茶会や歌会等に使用されました。

100円払って亭内へ(参観は木〜土、葵祭、時代祭のみ)。



玄関より。道をたどると東屋がありました。



2階より。前方には勾玉池(まがたまのいけ)、現在は九条池が広がっています。

中央に架かる橋は明治15年竣工の「高倉橋」です。

昔は木が繁っておらず、東山の借景を取り入れてたとされます。



お約束通り?見逃してしまいました。

大雑把に見てしまう癖はなかなか治りません…です。

またの機会に。

九条家は、南東部・九条陶化坊(くじょうとうかぼう)にありましたが、秀吉の政策により御所の南に移されました。



庭に降りて拾翠亭を撮影。

40坪余りですが、「拾翠」の名前には緑の草花を拾い集めるという意味が込められています。

また、かつてこの地に多くのカワセミ(みどりの美しい鳥)が飛来したことから「拾翠」と名付けられたとも云われます。

訪れている人も少ない中、欧米人と思われる若いカップルが見学していました(男の子は熱心に見ていましたが…)。



五摂家は藤原鎌足(かまたり)、不比等(ふひと)と続き、3代目で南家、北家、式家、京家と分かれ、特に「北家」が有力となっていき、平安中期に藤原道長の時には最盛期を迎えます。

武士が台頭した平安末期に藤原忠通が、息子の基実(もとざね 1143〜1163)と平清盛の娘・盛子(もりこ/せいこ 1156〜1179 13歳差)を結婚させ、権力を維持しようとしました。

この藤原基実が近衛姓を名乗ります。

鎌倉時代、近衛家(長男)と九条家(三男)ができ、

鎌倉時代末には近衛家から鷹司家が、

九条家から二条家、一条家が分家しました。

そして、摂政・関白になる五摂家として固定していきました。

藤原氏ではない、豊臣秀吉(1837〜1598)や秀次(ひでつぐ 1568〜1595 秀吉の姉の子)は近衛家の養子となることで関白の座に着きました。



九条池のほとりには九条家の鎮守社である「厳島神社」が勧請されていました。

石鳥居は柱の上の石が弓のような曲線を描いている唐破風の珍しい形で京都三珍鳥居の一つです。

あと2つは、通称「蚕ノ社(かいこのやしろ)」の3本鳥居、そして、北野天満宮参道に鎮座する「伴氏社(ともうじしゃ)」の柱の台座に蓮が刻まれている珍しい鳥居です。

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