嵯峨野周辺…常寂光寺

嵯峨野・小倉山にある「常寂光寺」です。



宗派 日蓮宗

開創は1596(慶長元年)、本圀寺16世日しん(示すへんに眞)上人がこの地に隠棲したことに始まります。

戦国時代の公家・広橋国光(1526〜1568)の子どもとして生まれ、のちに18歳にして本圀寺でトップとなります。1595(文禄4)年に豊臣秀吉が、建立した方広寺大仏殿の千僧供養に出仕・不出仕をめぐり、京都の本山が分裂。上人は出仕せず、やがて本圀寺を出てこの地に棲みます。

小倉山一帯は高瀬川を開いた角倉一族の所有であり、角倉了以の従兄・栄可より土地の寄進を受けたとされます。



境内には200余本のカエデが。



本堂の左手には、北極星や北斗七星を象徴した菩薩を祀る妙見堂があります。

妙見さまは諸星の王として宇宙万物の運気を司り、京都・畿内に多く祀られました。

中世では地方の豪族により守護神として、江戸時代では各藩主や大衆、豪商の帰依(信仰すること)を受けました。

当山の妙見さまは慶長年間(1596〜1610)、保津川洪水の際に上流から流れ着いた妙見さまを麓の角倉町の一船頭が拾い、久しく同町の集会所にお祀りされていたのを享和年間(1801〜1803)にこの地にご遷座したとありました。

以来、京都御所から西の方角(酉)に当たることから「酉の妙見菩薩」さまとして江戸末期〜昭和初期にかけ、関西一円から開運、厄けのご利益を願う参拝者で賑わいました。

本堂は帰依していた小早川秀秋の助力で桃山城客殿を移築したものです。

※小早川秀秋(こばやかわひであき)…1582〜1602 享年21歳。豊臣秀吉の正室・ねねの兄の子。関ケ原の戦いで家康軍に寝返り、領地が加増されるが、アルコール依存に関連した病気で死去されたといわれる。



「女の碑」です。

第二次世界大戦で200万人にのぼる若者が戦場て生命を失いました。その陰にあって、その若者たちと結ばれるはずであった50万余の女性が、独身のまま自立
の道を生きた証しと、戦争を繰り返してはならないと後世に伝えるために云々とありました。1979年12月…今から40年前に建てられた碑です。

揮毫は市川房枝氏(1893〜1981 明治26〜昭和56)。男女平等や女性解放運動に一生を捧げた偉大な女性です。

令和がきても、まだまだ男尊女卑の社会だとばあばは思うのですがいかがでしょうか。

※揮毫(きごう)…毫(ふで)を揮(ふる)の意。文章などを書くこと。

「きもう」と読んでいました。指揮者の揮も「ふる」からきてるんですね。

65年間、ぼっ〜と生きてきたわけではないのですが、曖昧に過ごしてきたことが多すぎる!と思います。



「定家山荘跡」の石碑です。

百人一首の選者で有名な藤原定家の山荘の場所は諸説ありますが、常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側にあったと伝えられています。

こちらもよろしくお願いします↓

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村

京都ばあばイチ押し!京都観光のガイドブック