霊鑑寺その1…幻の徳川11代将軍と霊鑑寺4世宗恭女王のこと

京都市バス「真如堂前」で下車し、東山に向かって坂道を登り、迷いながらも哲学の道を横切ったところに「霊鑑寺」がありました。



ひっそりとした「哲学の道」。



哲学の道から歩いてすぐに



尼門跡寺院「霊鑑寺」があります。



第54回京の冬の旅で3月8日まで公開されています。



配置された石の中に灯篭が立っています。



苔が美しい庭です。



本堂の前にはご本尊の

如意輪観音さまの写真がありました。観音さまの足元にある鏡(鑑)が霊鑑寺の名の由来となりました。

20cm程の観音さまで、もとは霊鑑寺近くにあった「如意寺」のご本尊および霊鏡と伝わります。

観音さまが安置されている本堂は徳川第11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり1773〜1841)が1795(寛政6)年に寄進しました。

家斉といえば妻妾16人、子どもが男子26名、女子27名(うち成人したのは28名)とゴッドファーザー?で知られた将軍です。

徳川第10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)の嫡男・家基(いえもと 1762〜1779 18歳)は、聡明で政治にも関心をもち(田沼意次の政治批判も)、次期将軍として期待されていましたが、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川にある東海寺で突然、身体の不調を訴えて3日後に死去します。

家治には他に後継者がなく、

一橋治済(ひとつばしはるさだ/はるなり)の長男・家斉が第11代将軍となります。

その「幻の第11代将軍」家基の許嫁が霊鑑寺4世・宗恭女王(そんきょうじょうおう 1770〜1821)でした。宗恭女王は閑院宮家出身で第119代光格天皇(こうかくてんのう 1771〜1840)の異母姉にあたります。

家基の死から10年後の1789年に霊鑑寺に入室。

20歳から30年余を霊鑑寺で過ごされます。

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