本法寺…長谷川等伯涅槃図

小川通りに面して「本法寺」があります。

創建 1436(永享8)年

宗派 日蓮宗

開基 日親上人

日親上人の他宗派批判が原因で破却に遭い、

1536(天文5)年の法難で都を追われ堺に避難、のち一条戻橋付近で再興。

1587(天正15)年に現在地へ(1788年の大火で経蔵と宝蔵以外は焼失しますがその後に再建)。

※法難・天文法華の乱(1536年天文5)…延暦寺の衆徒が、京都の日蓮宗寺院二十一寺を襲撃破却した事件。



門を入っていくと、右手に「摩利支天」をお祀りした社殿がありました。

摩利支天は仏教の守護神で陽炎を神格化したものです。



山本勘助や前田利家が信仰していました。



長谷川等伯(1539〜1610)像です。

能登国七尾(現在の石川県)に生まれた等伯は染物を生業とする長谷川家の養子となり絵師として活動。養父母の死をきっかけに30歳代で京都に移り住み、菩提寺の本山であった本法寺を拠点に活躍しますが、作品が世に知られるのは50代になってからとされます。



広い玄関と



天井に圧倒されました。

本阿弥光悦(1558〜1637)作の「巴の庭」です。

本阿弥家は刀剣の鑑定や研磨を生業とし、足利幕府に仕えていましたが、光悦の祖父・本阿弥清信が室町幕府第6代将軍・足利義教(1394~1441)の怒りに触れ、投獄された際に獄中で日親上人と出会い、熱心な法華信者となり、本法寺を菩提寺として支えていきます。



巴の築山が三ヶ所あったようですが今はわかりづらくなっています。

手前は切石による十角形の蓮池です。



由緒書きより。



等伯(61歳)作の「佛涅槃図」です。

縦が10m、横が6mあります。

息子・久蔵が26歳で急逝。七回忌の時に描き、奉納しました。

お釈迦さまを失い、嘆き悲しむ弟子や動物たち。

1番左にある木にもたれている青色の着物を着た人物が等伯と云われています。

涅槃図の裏にはお釈迦さまや日蓮上人、等伯の近親者の名や戒名などが記されており、供養を目的として描かれたとされます。

館内は京都ばあば1人。

自然と涙が出てきました。

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