報恩寺(通称・鳴虎)

小川通寺之内を下ルと、



「報恩寺(通称・鳴虎なきとら)」があります。



東門前の石橋です

かつては小川が南流し、一条通付近で堀川に合流していましたが、現在は埋め立てられています。

この石橋は1602(慶長7)年、豊臣家に仕えた尼僧・仁舜尼(にしゅんに)が寄進しました。



さらに進むと本堂があります。

浄土宗のお寺で、



快慶(生没年不詳)作と伝わる阿弥陀如来三尊が安置されています。

報恩寺の通称が「鳴虎」になった由来について…

第104代後柏原天皇(1462〜1526 戦国時代 )より下賜された掛軸・虎図を秀吉が聚楽第に持ち帰り、床の間に掛けていたところ、夜に虎が鳴いて秀吉は眠れず、早々に寺へ帰すと静かになったので、以降、鳴虎の名がつけられました。

※虎図→中国の画人・陶佾(とういつ)作で谷川で水を飲む虎が描かれている。1本々の毛や長さが様々な方向に描き分けられ立体的な姿で表現されているとの事ですが、12年に1度、寅年の正月三が日しか公開されていません。



本堂近くに「びんずる」さんが鎮座していました。

びんずるさんは釈迦のお弟子さんです。

毎日、熱心に修行に励んでいましたが、お酒が大好きで、隠れてお酒を飲んでいました。

ある日、お釈迦さまに見つかり叱られた時に舌を出したとか(びんずるさんに会う機会があったら確かめなければ…)。

身体の悪い所を撫でると除病の功徳があるとされます。

びんずるさんは神通力を誇示したのでお釈迦さまは怒り、

「お前は究極の悟りを得ず、この世にとどまって仏法を守り、人間の病を癒し、多くの衆生を救いなさい。」と命令されて今でもこの世で私たちを救ってくださっています。



門の向こうには、1623年に福岡藩初代藩主・黒田長政が亡くなったとされる客殿があります。

徳川家光が征夷大将軍に就任するために上洛。

長政も病を押して京へ入り、宿舎としていた報恩寺で病床につきました。



客殿前には、第111代後西天皇(ごさいてんのう 1638〜1685)第7皇女・賀陽宮墓(1666〜1675 10歳)がありました。

※後西天皇には11人の皇子と16人の皇女がおられました。



鐘楼近くにあった石です。

報恩寺の鐘楼は畠山持国(1398〜1455)が陣鐘に用いたとされますが、江戸時代には「撞かずの鐘」として哀しい話が伝わります。

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