平安貴族の遺跡を訪ねて

堀川御池を東へ、西洞院通を上ルと「御金神社」です。


黄金の鳥居は2006(平成18)年に金箔が施されました。

ご祭神は金山毘古命(かなやまひこのみこと)→父・イザナギ、母・イザナミです。

朝6:30の訪問でしたので参拝者は3名!



ものすごい数の絵馬です。

ご神木は、社殿奥の樹齢200年以上、高さ22mと云われるイチョウです。

さらに西洞院通を北へ行き、最初の道を東へ。

押小路通釜座西北角にある、



「東三条院址(とうさんじょういんし)」です。

第60代醍醐天皇の第4皇子・重明親王(しげたきらしんのう 906~954)の邸を藤原良房が譲り受け、藤原氏出身の女子で皇妃や母后となった女性が居住する慣わしとなりました。



その後、藤原道長に引き継がれ、

「邸内は尊美を極め、庭内池には竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた(駒札より)」

とありましたが、1177年火災で焼失します。

次は、東三条院址から押小路通を西へ。小川西北角にある、



「閑院内裏(かんいんだいり)」址です。平安時代初め、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ 795~826)の邸宅があり、
のちに藤原道長を支えた閑院大臣こと藤原公季(ふじわらのきんすえ 956~1029 74歳)が伝領します。


公季の孫・藤原公成(ふじわらのきんなり 999~1043)の娘・茂子(もし ?~1062)が後三条天皇に嫁ぎ、

第72代白河天皇(1053~1129 77歳)を産んだ事により、院政期天皇の外戚として絶大な権力を築きました。

平安末には大内裏が甚だしく荒廃していた為に高倉天皇(1161~1181 21歳)の内裏となり、一時、九代の天皇90余年の間里内裏となっていましたが、




1259年に火災で焼失後再建されませんでした。

室町後期には妙顕寺がありましたが、豊臣秀吉が移転。

秀吉の邸宅・妙顕寺城が建てられました。



左手は「西福寺」の門です。

次は源氏物語の二条院候補地、夷川公園へ。



「陽成院」は884年2月譲位した陽成上皇(869〜949 81歳)が御所とした所です。

生没年が明確な天皇では

昭和天皇(87歳)、後水尾天皇(85歳)についで長寿となりました。

9歳で即位し、17歳で退位。

上皇歴は65年間という長期に渡ります。

陽成天皇と菅原道真を大宰府に追いやった伯父・藤原基経(836〜891)との関係が悪化しており、次の天皇には光孝天皇が55歳で即位します。



NHK教育テレビ高校講座「日本史」より



源氏物語では光源氏の母・桐壺更衣(源氏が3歳の時に死去)の実家があり、改築して紫上を迎え入れた場所と想定されています。



実際には陽成上皇の崩御後、二分割されて北町は一般の宅地に、南町は荒廃しました。
※伯父は両親の兄。叔父は両親の弟。

叔の字の左に小が入っているので弟と覚えてみては?


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