清閑寺そして高倉、六条天皇陵へ。

子安の塔から、



歩くこと10数分。



「歌の中山(子安の塔から清閑寺までの山路)」を通ります。

寺伝では清閑寺(せいかんじ)の真燕僧都が門前で美女を見かけて俗念を起こして清水までの道を尋ねたところ、美女が歌を返して姿を消し、詠まれた場所が当地であったとか。



左手に入り、



さらに山路を進むと、



「清閑寺」がありました…が…山門は閉じられて入れませんでした。

創建は802(延暦21)年→異説あり。

本尊は十一面千手観音です。

一度だけ来たことがありますが境内は狭く、小督局の供養塔があったのだけは覚えています。

清盛の娘婿2人を惑わしたとして、清盛の怒りに触れ、高倉天皇から引き離された小督局が出家させられたお寺です。

※小督局(1157〜?)…出家後は不明。

しかし、平家滅亡後、高倉天皇との間に生まれた範子内親王(はんしないしんのう 1177〜1210)は異母弟の第82代後鳥羽天皇の即位により第83代土御門天皇の准母となり、皇后とされました。

清閑寺は清水寺と並ぶ大寺院でしたが、応仁の乱で荒廃。

その後、再興されましたが、明治4年に大部分が官有地に編入され衰退。

垣根から写しました。

調べると、前庭には「要石(扇の要の位置にあたる)」があり、”誓を立てると願いが叶う”とありました。



西郷隆盛と清水寺成就院住職・月照上人が密談した茶室「郭公亭(かっこうてい)」がありましたが、老朽化のために1991年7月に解体されました。



清閑寺の入口階段手前に、

第79代六条天皇(1164〜1176 13歳)清閑寺陵および

第80代高倉天皇(1161〜1181 21歳)後清閑寺陵

がありました。

※六条天皇…満7ヶ月と11日で即位。在位3年弱で祖父・後白河上皇の意向で叔父の高倉天皇に譲位。元服を待たずに病死(赤痢?)。

六条天皇の父・二条天皇(1143~1165 23歳)と後白河上皇は度々対立していたと伝わります。

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