圓徳院にて…話題のご朱印

外出自粛中の高台寺近くです。



今回は「圓徳院」へ。

豊臣秀吉(1537〜1598)の妻・ねね(1548〜1624)が19年間過ごした所です。



前に訪れた時はツワブキの花がきれいでした。



志村正 (1949~) 作の雪月花図襖です。方丈は平成6年に解体修理。

襖絵「白龍図」は赤松燎(あかまつ りょう 1922〜1996 倉敷生まれ)画伯の遺作です→さっと通り過ぎてしまいました。

またの機会に…。



三玄院住職・春屋宗園に襖の制作をしたいと懇願しながらも許されなかった長谷川等伯(はせがわとうはく 1539〜1610)が、住職の留守中に客殿に駆け上がり一気に描きあげたと云われる障壁画「冬の絵」です。



順路に従い歩いていると奥まった部屋がありました。

ねねさんの兄(異母?)・木下家定の嫡男庶子である木下勝俊(1569〜1649 81歳)は歌の才がありました。

若狭藩主となりますが、のち、高台寺の南隣に隠棲し、文人となり「長嘯子(ちょうしょうし)」と称しました。

その縁でここに歌仙の間があるのでしょうか?(晩年の勝俊は西山樵夫と名乗り勝持寺近くで暮らしました)

秀吉の死後、ねねは家定や利房(家定の次男)に支えられました。

「圓徳院」は、ねねの没後9年目に利房の手により、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされました。

※木下利房…1573〜1637 。父を継いで備中足守藩第2代藩主となる。大坂の陣では徳川側として功を成し、木下足守藩は12代256年続くことになります。

なお、小早川秀秋(1582〜1602)は同母弟。1600年の関ヶ原の戦いから2年後に21歳で亡くなります。

利房は圓徳院と号し、現在の寺名となっています。



北庭は伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したはものです。

賢庭作で、のち、小堀遠州が手を加えたとされます。



たくさんの巨石がごろごろ😆。



でも、居心地よく収まっています。



テレビでも取り上げられていた無料のご朱印です。

方丈の間にさりげなく置かれてました。

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