長岡京跡…悲劇の早良親王



自転車で、JR桂川駅から線路沿いに南下(途中、逆方向に行ってしまいました)。竹を彩った道しるべを頼りに、



ようやく、「長岡京跡」にたどり着きました。



784年に第50代桓武天皇(737~806)の命で、奈良・平城京より遷都されました。



昭和36年の発掘調査で確認された大極殿が昭和39年に「長岡京跡」として国の史跡に指定されました。

「長岡京」は、向日市・長岡京市・大山崎町・京都市の一部と広範囲にわたります。

うち、政治や儀式を行う大極殿や朝堂院など都の中心部は向日市にありました。



大極殿跡の記念碑です。



大極殿の前に建てられる古代中国伝来の儀式用旗飾り「宝幢跡(ほうどうあと)」です。

天皇の権威の象徴であり、

天皇の即位式や元旦のみに7本建てられました。



(向日市文化資料館パンフレットより)高さ9mの大柱の上に青龍・朱雀・白虎・玄武の四神の絵がはためき、

鳥や日・月の飾り物が揺れたとの説明書きがありました。



現在は公園として整備されていました。

785年の9月23日、長岡京造営責任者・藤原種継(ふじわらのたねつぐ 737~785)が矢で射られ、

翌日死去という事件が起こりました。

その後、遷都に反発していた大伴継人を始め、

大伴氏、佐伯氏、紀氏数十人が捕えられ、首謀者は8月に死去した大伴家持(おおとものやかもち )とされました。



また、次の天皇とされる桓武天皇の同母弟・早良親王(さわらしんのう 750~785)も関わったとして乙訓寺に幽閉されたのち淡路島に流罪となりました。

しかし、早良親王は無実を訴えるために食を断ち抗議。河内の国で絶命したと伝わります。

それから後、

桓武天皇の夫人・藤原旅子(ふじわらのたびこ 759~788)

桓武天皇の后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ 760~790)

桓武天皇の生母・高野新笠(たかののにいがさ ?~790)と

次々と亡くなられ、

皇太子・安殿親王(あてしんのう、のちの平城天皇)の発病を始め、

飢饉や疫病の流行と次々と不吉な変事が起こり、全ては早良親王の怨霊によるものとされました。

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