京都御苑…猿ケ辻と中山邸跡(明治天皇のお母さんの実家)

京都御所北東の角に塀がへこんだ通称「猿ケ辻(さるがつじ)」と呼ばれる場所があります。



屋根裏下の金網の奥には、魔除けのために日吉山王社の神の使い→烏帽子をかぶり、御幣を持った木彫りの猿が祀られています。

本来は鬼門(=北東)を守ってくれるお猿さんなのですが、



夜、抜け出してあちこちでイタズラしたため、逃げ出さないように金網を張ったとか。

この”猿ケ辻”付近で、

1863(文久3)年5月20日、

尊攘派(君主を尊び外敵を斥けようとする思想)の公家・姉小路公知(あねがこうじきんとも 1840〜1863 24歳)が深夜の会議を終え帰宅していた所、3人の刺客に斬殺されたと伝わります。

薩摩藩の田中新兵衛(1832〜1863)が捕らえられますが、取り調べ中に自殺し真相は闇に葬られました。

猿ケ辻の北に、



明治天皇のお母さんの実家・中山邸跡があります。

幕末期の権大納言・中山忠能(なかやまただやす 1809〜1888)の屋敷跡です。

娘の中山慶子(なかやまよしこ 1836〜1907)は1852(嘉永5)年に祐宮(さちのみや のちの明治天皇)をこの地で出産、祐宮は4年間ここで養育されました。



慶子は17歳で宮中に出仕。まもなく、孝明天皇の皇子を産みます。

なお、産屋建築の大半を借金したと云わります。

孝明天皇の皇子女で成人したのは祐宮ただ1人でした。

※同じく典侍・坊城伸子(ぼうじょうただこ 1830〜1850 21歳)は、

1850年に第一皇子・妙香華院を出産しますがその直後に母子(死産?)ともども亡くなられます。



1860年、祐宮は女御・九条夙子(くじょうあさこ 1835〜1897)の実子とされ親王宣下。「睦仁」と付けられます。

1867年、16歳の睦仁親王は即位され、明治天皇となりました。

1870年には遷都に伴い東京に移住しました。

慶子は嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育係等皇室を支えますが、1907(明治40)年、東京青山南町の邸で死去。

東京にある皇族のお墓「豊島岡墓地」に埋葬されています。

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