下御霊神社にて。

革堂上ルと

「下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)」があります。

創始は863(貞観5)年、神泉苑の御霊会からと伝わります。

疫病流行や天変地異は、政争に巻き込まれて非業の死を遂げた人物の怨霊によるものと考えられ、その怨霊を慰めるために創建されました。



もと、下出雲寺御霊堂に祀られていましたが、各地を転々として1590年に秀吉の都市整備にともない、



この地に遷座されました。



写真中央には、玄武と朱雀に乗った仙人の彫刻がありました。

この表門は京都御所にあった御門と伝わります。



1770年の旱魃で人々を救った「感応水」と同じ水脈からなる地下水「御霊水(ごりょうすい)」です。



ご祭神は、

【崇道天皇(すどうてんのう 750?~785年】 桓武天皇の同母弟

→785年に造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座して皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉されました。

無実を訴えるために絶食し、10日余日、

淡路島に配流される途中、河内国(現守口市高瀬神社)付近で憤死したと伝わります。

【伊予親王(783?~807 】

桓武天皇皇子。父からは深い寵愛を受けたとされます。

【藤原吉子(ふじわらのきっし ?~807年 】

伊予親王の母・藤原南家出身

→806(大同2)年、藤原宗成(785~858 藤原北家出身)が謀反を勧めているとの情報より、伊予親王親子は逮捕、幽閉されまもなく自害。



【藤原広嗣 (ふじわらのひろつぐ ?~740)】

父は藤原式家祖・藤原宇合(ふじわらのうまかい)

740年、僧正の玄昉や吉備真備(きびのまきび)らの排除を要求し、左遷先の九州で挙兵するも2ヶ月後に敗北(藤原広嗣の乱)。

日本で最初の怨霊とされる。

【橘逸勢(たちばなのはやなり 782?~842) 】

842(承和9)年、嵯峨上皇崩御の2日後、天皇の皇位継承を巡り、藤原良房が有力氏族の伴健岑、橘逸勢などを排斥した事件で、恒貞親王は皇太子を廃され、逸勢は伊豆国へ流罪となります。が、遠江(現・浜松市)で病没。

逸勢は死後、罪を許されて従四位下が贈位されます。

なお、恒貞親王は第53代淳和天皇の第2皇子で、皇太子になるのを嫌がっており、承和の変後は大覚寺でひっそりと暮らしたと云われます。



【文屋宮田麻呂 (ふんやのみやたまろ 生没年不詳)】

843(承和10)年に謀反の罪により伊豆国へ配流されたが、死後に無実と判明。

【吉備聖霊(きびのしょうりょう) 】上記六座の神霊の和魂(にぎたま 神さまの優しい側面)。

【火雷天神(からいのてんじん) 】上記六座の神霊の荒魂(あらたま 神さまの荒々しい側面)

八所御霊が祀られています。



本殿は1791年に御所から移築されましたが、あちこちと傷んでいました。



ナナメに立つサルスベリの木は必見です。

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