🐁会いたかった!五劫思惟阿弥陀さま

1862年、京都守護職に任命された松平容保(まつだいらかたもり 1836~1893)は1000人以上の会津藩士を率いて上洛。

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を本陣としました。

松平容保はその後、日光東照宮宮司となり、明治26年に東京小石川自邸で肺炎により死去。享年58歳でした(第15代将軍・徳川慶喜は大正2年まで存命)。

余談になりますが、容保の6男で外交官・松平恆雄氏の長女・勢津子(1909~1995)は大正天皇の第2皇子・秩父宮雍仁親王(やすひとしんのう 1902~1953)と結婚します。



山門までたどり着くのに、



そこそこ歩きました。



そばまで行くと、



山門が迫ってきました。



勢至丸こと法然上人は美作(みまさか 岡山県)の出身です。

昭和19年に再建された御影堂には、法然上人75歳の御影(座像)が安置されています。



境内には茶店もあります。



御影堂右手には「直実鎧掛けの松」がありました。



源平合戦「一ノ谷の戦い」において、

平敦盛(1169~1184 16歳)との一騎討ちで知られる熊谷直実(くまがいなおざね 1141~1207または1208)が洗った鎧を掛けた松とされます。

蓮池院は、のちに出家した直実が法刀房蓮生と名乗り庵を結んだ場所とされます。



“直実鎧掛けの松”を左手に、



この看板を目印に、



進むと、

すっかり有名になった、アフロヘアの、



「五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしいあみだぶつ)」さまが鎮座していました。

五劫とは想像できないほど長い時間を意味し、

人々を救うために髪の毛を切る間もなく修行した仏さまです。



近くには徳川第2代将軍秀忠の御台所・お江さん(崇源院 淀殿の妹 秀忠は3人目の夫)のお墓があり、遺髪が納められています。

このお墓は、第3代将軍を巡ってお江さんと争った春日局 (家光の乳母)が建立しました。

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