💫清盛の娘二人の恋敵…小督局(こごうのつぼね)出家の清閑寺

高倉天皇・六条天皇陵から清閑寺へ。

前回、訪れた時には門が閉まっていたのですが、



右手の石段を昇りつめると、



今日は開いていました。



山門をくぐると、



まず、苔の碧が飛び込んできました。



清閑寺(せいかんじ)の最盛期には清水寺と並ぶ大寺院でした。

法相宗興福寺派・清水寺に対して天台宗であった清閑寺は寺領をめぐり度々衝突を繰り返します(現在は真言宗)。



創建 802年(異説あり)、



高倉天皇の寵妃・小督局(こごうのつぼね 1157〜没年不詳)が平清盛の怒りに触れ、この寺で範子内親王を産んだ後に出家されられた地と伝わります。

小督局は四条隆房の愛人でしたが高倉天皇に見初められて寵妃となります。

四条隆房の正室は清盛の娘(五女か?)、

高倉天皇も娘婿。

いわば、娘二人の恋敵です。



小督局は美しく、琴の名手でした。



本尊は十一面千手観世音菩薩。

菅原道真が梅樹から彫ったと伝わります。



境内の大きな石からは、扇を広げたような形で市内が一望でき、その石が丁度、扇の要の位置にあたることから「要石」と呼ばれ、願いをかけると叶うとされます。



小督局はこのあたりに立ち、宮中の日々を懐かしんでいたと伝えられます。



江戸時代の住僧・宗伯が寺内に窯を築き、やがて野々村仁清が宗伯の門に入りました。

※仁清はのちに仁和寺の門前に御室窯(おむろかま)を開きました。



与謝野礼厳(よさのれいごん 1823〜1898)は与謝野鉄幹の父。

西本願寺支院・願成寺の僧で17,100余首もの歌が残ります。

明治29年に妻を亡くし、その冬に清閑寺に隠棲しました。



鐘楼の上方には西郷隆盛と清水寺成就院住職・月照上人が密談した茶室「郭公亭(かっこうてい)」がありましたが、老朽化により1991年7月に解体されました。

※尊皇攘夷派の月照上人は安政の大獄後に京から脱出、薩摩藩には受け入れられずに隆盛とともに錦江湾で入水自殺。

隆盛は一命をとりとめますが、上人は死去。享年46歳。



可愛らしいお地蔵さん?



境内をぐるりと一周すると…力強いお不動さんが鎮座していました。

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