💫ばあばのひとり旅…上野⑧上野寛永寺
- 2021.05.12
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上野戦争の舞台となった「上野寛永寺」へ。
東京芸大音楽学部付属高校の、
向かいに「東叡山寛永寺」がありました。
1622年、天台宗の拠点となる大寺院建立のために、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠より天海に上野の地が寄進されました(津藩や弘前藩、越後村上藩等の下屋敷があったとされます)。
寛永2 年の1625年、3代将軍徳川家光は江戸城の鬼門(北東の方向)を封じるために寛永寺を創建したと云われます。
ご本尊は薬師如来。
上野戦争(1868年)で旧幕府軍の彰義隊が寛永寺に立てこもり、新政府軍の攻撃で伽藍は焼失、焼け野原と化しました。
ちなみに、寛永寺の旧本堂(根本中堂)は東京国立博物館前の噴水あたりとされます。
現在の本堂は埼玉県川越市の喜多院の本地堂(1938年建造?)が移築されました。
本堂の右手には尾形光琳の弟・尾形乾山の墓碑がありました。
輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、81歳で没すると下谷・善養寺に埋葬されました。
やがて、乾山の墓の存在は忘れ去られますが、尾形光琳を慕う酒井抱一の手により探し出され、顕彰碑が建てられました。
乾山の墓碑から徳川将軍のお墓求めてウロウロ。
ようやくたどり着いた、
「徳川綱吉霊廟勅額門」です。
ここには、第5代将軍徳川綱吉(1646〜1709 家光4男)、第8代将軍徳川吉宗(1684〜1751 紀州2代藩主徳川光貞4男)および第13代将軍徳川家定(1824〜1858)が眠っています。
※1720(享保5)年の御霊屋建立禁止令以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺いずれかに合祀。
寛永寺から東京芸術大学の前を通り過ぎてから?(キャンパス内に入りたかったのですが守衛さんがいて入りずらかったので…)
上野駅に向かいました。
ひょっとしたら、チェロを習っている孫ちゃんが将来お世話になるかも…かも…です😚。
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