銀閣寺…義政の生涯

1482年に応仁の乱で焼失した浄土寺の跡地に西芳寺(苔寺)を模して、室町幕府8代将軍・足利義政(1436〜1490)により8年の年月をかけ東山山荘が造営されました。




左手には浄土院があります




修学旅行では銀閣と向月台しか記憶にございません😆




境内図を眺めていよいよ境内へ




簡素な総門です




銀閣寺垣(石垣、竹垣、椿やクチナシなどの樹木からなる)




高さ5mの銀閣寺垣が50mほど続きます。




中門








本堂(方丈)には宝冠釈迦如来坐像が安置されています




花頭窓(かとうまど→鎌倉時代の禅宗様式)から銀沙灘(ぎんしゃだん)を眺めました




高さ180cmの向月台(こうげつだい)→銀沙灘とともに京都特産の白川砂が使われ、江戸初期の改修の折に造られました。”月”に関係したものではないかと言われます




銀沙灘は厚さ65cmの盛り砂で直線の縞模様からなります




観音殿(銀閣)、初層は”心空殿(しんくうでん)”と呼ばれ厨子の中にはたくさんの人を救うために親指大の千体地蔵菩薩が安置されています。
二層の”潮音閣(ちょうおんかく)”には洞中観音さんを安置




現在最古の四畳半の畳の部屋がある東求堂(とうぐどう 国宝)








“銀閣”と呼ばれたのは江戸時代に入ってからといわれます。








銀閣には銀箔が貼られていたのではと考えられていましたが、2007年の調査では銀箔の痕跡は検出されませんでした。




足利義政(1436~1490)は、同母兄で義教の長子・義勝の急死(赤痢か?)により、14歳で室町幕府第8代将軍となります。








20歳で日野富子を正室に迎えますがなかなか子供に恵まれず、次期将軍を異母弟・義視に託しますが義尚(よしひさ 1465~1489 25歳)の誕生で応仁、文明の乱のひとつの要因となっていきます。








1474年、9歳で第9代将軍になった義尚は15年余その職にありますが、1489年の3月に六角氏討伐の陣中で死去。一説には過度のアルコールによる脳卒中といわれています。




※義政は実権を義尚になかなか渡さずに父子間の確執があったとされます。




同年8月、義政自身も脳卒中で身体が不自由となり、




翌1490年1月、銀閣の完成を待たずして、義尚の後を追うように死去します。

こちらもよろしくお願いします↓

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村

京都ばあばイチ押し!京都観光のガイドブック