散り椿と守護神
- 2019.11.03
- 北区
「平野神社」から西大路通東側を下リ、北野白梅町通過、さらに下ルと西大路一条の標識が見えてきます。
今度は一条通を東に向かうと右手に、「地蔵院(通称 椿寺)」が見えてきます。
726(神亀3)年、行基(668〜749 82歳)が第45代聖武天皇(701〜756 56歳)の勅願によって摂津国の昆陽池(こやいけ 現在の伊丹市)のほとりに建立した地蔵院が始まりとされています。その後、焼失や移転。1589(天正17)年に豊臣秀吉の命で現在地に移されました。
京都には「竹の寺」の通称をもつ西京区の地蔵院や東山区、長岡京市にも同名のお寺があります。
宗派は浄土宗、ご本尊は阿弥陀如来です。
豊臣秀吉(1537〜1598 62歳)が1587(天正15)年に「北野大茶会」を催した際、世話になったお礼に寄進したという「五色八重散椿(ちりつばき)」です。現在の椿は樹齢120年余の2世です。3月下旬頃に見頃を迎えますが1本の木にいろんな色合いの花が咲き、花びらが1枚ずつ散ります(普通、椿は花が丸ごと落下)。また、大輪の花を咲かせます。
十一面観世音さんとその東のお堂にはお地蔵さんが安置されていました。
地蔵院には大坂の商人・天野屋利兵衛(あまのやりへい 忠臣蔵の物語では赤穂浪士を支援したと描かれているが実際は無関係)や与謝蕪村(1716〜1784 69歳 俳人)の師・夜半亭巴人(1676〜1742 67歳)のお墓があります。
地蔵院から紙屋川が流れている橋を渡りしばらく歩くと左手に「大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)」見えてきます。
平安遷都の際に平安京北西の角の地に王城鎮護のために造営されたのが始まりです。
「大将軍」は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)のひとつです。大将軍は3年ごとに居を変え、その方向は万事が凶とされ、特に土を動かすことはよくないとされました(ただし、遊行日あり。その時は回避される)。
主祭神はスサノオノミコトです。
本殿の右奥にある「方徳殿」ですが非公開です(5/1〜5 11/1〜5及び事前予約すると拝観できます)。
以前、拝観したのですが、兵馬俑(へいばよう)のような像がたくさん並んでいました。
平安時代中期〜鎌倉期にかけて奉納された木造の大将軍神像80体余(100体?)が安置されています。また、江戸時代の天文学者・渋川春海(しぶかわしゅんかい・はるみ 1639〜1715 77歳)が遺した日本で最古クラスの天球儀も展示されています(1763ケの星が描かれている)。
※最古は伊勢神宮に収められいる1673年製の天球儀といわれている。
石蕗(ツワブキ)の花が咲いていました。咲く花が少ない秋〜初冬にかけて菊に似た黄色い花を咲かせます。
ちなみに島根県津和野の地名はツワ(ブキ)の多く生えるところに由来しています。
境内にはたくさんの神さまがお祀りされていました。
生まれた干支で北斗七星の7つの星のうちのひとつが守護神となってくれます。「北斗七星のお守り」はその守護神が赤星で縫い付けられています。
また、方除けの祈祷を受けると1年間はどの方位に行っても大丈夫と雑誌に書かれていました。
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