高松・神明神社(たかまつしんめいじんじゃ) Takamatsu Shinmei Jinjya Shrine

高松神明神社(たかまつしんめいじんじゃ)
高松・神明神社(たかまつしんめいじんじゃ)です。創建は921年。
ご祭神 天照大神
    八幡大神(第15代応神天皇。母は神功皇后、子は第16代仁徳天皇)
    春日大神(天児屋根命。あめのこやねのみこと。中臣連の祖)
です。
この神社の地が様々な歴史の舞台として登場。以下は由緒略記より引用します

◎平安時代
一 延喜14年(914)醍醐天皇の十番目の皇子として、高明親王がお生まれになり、七歳の時、源朝臣の姓を賜り、左京の三条三坊に邸宅として「高松殿」をご造営になりました。同時に、伊勢から天照大神を御勧請になり、鎮守の八代としておまつりに→鎮守の社としてお祀りに。まもなく一千百年を迎えます→まもなく創建一千百年を迎えます。

※高明公は昇進して正二位左大臣となられました。「安和の変(あんなのへん)」により、大宰権帥に左遷されましたが、二年後に京に戻られ、西宮大臣と称されました。
ニ 高明公の娘の末娘明子が藤原道長と結婚されて、お住まいになっていました。明子と道長との娘の寛子は小一条院敦明親王(三条天皇の第一子)の室となって高松殿を住まいにされました。その後は藤原一族の方々が住んでおられました。

三 康和四年(1102)白河上皇が藤原顕季(ふじわらのあきすえ)の高松殿にお遷りになり、しばらく上皇御所となりました。

四 久安ニ年(1146)鳥羽上皇の命で長門守源師行(みなもとのもろゆき)が高松殿の地に近衛天皇の御所を造営し、「高松内裏(たかまつだいり)」となりました。

五 久寿二年(1155)近衛天皇が崩御され、後白河天皇が「高松内裏」で即位され、御所として使っておられました。久寿三年四月に保元元年(1156)と改元された時、「内裏高松殿、姉小路北西洞院東東西一町南北一町」と「歴代編年集成、帝王編年記」に記されています。

六 保元の乱では、後白河天皇方の本拠地となり、源義朝や平清盛らが参集して、崇徳上皇方の白河北殿へ攻め込みました。夜襲が成功して一日で終わり天皇方が勝利しました。

七 保元三年(1158)後白河天皇は、位を二条天皇にお譲りになって、高松殿を「院御所」とお定めになりました。

八 平治の乱(1159)で「院御所」は焼失しましたが、邸内に祀られていた鎮守社は高松神明として残りました。


◎鎌倉時代の後期には、廃宮となり、神明神社のみが残されました。

以後はかいつまんで…
応仁の乱で焼失しますが再建。
江戸時代もしばしば火災に遭い、その都度再建されますが境内や社殿の規模は甚だ縮小され、現在に至ります。

稲荷神社、天満宮、不動明王、弘法大師、神明地蔵尊、金比羅神社等がありましたが、元治元年(1864)7月19日の蛤御門の変による大火で地蔵尊のほかは焼失しました。



神明地蔵の立て札の次の写真。祠。
由緒略記によると寛政6年(1794)、高松神明宮宝性院(一時、真言宗東寺宝菩提院に属していました)の僧が紀伊国の善名称院に安置してあっ真田幸村の念持仏を持ち帰り、地蔵堂を建て、「幸村の知恵の地蔵尊」として祀られました。お堂の台石をさすった手で子どもの頭をなでると知恵を授かると信仰されています。


■高松・神明神社(たかまつしんめいじんじゃ) Takamatsu Shinmei Jinjya Shrine

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