芭蕉資料館にて…



清澄庭園から歩いて萬年橋を通り、芭蕉記念館(昭和56年開館)へ。

その前に…万年橋、万年橋、どこかで聞いたような…と本棚を探すとありました。

歌川広重(1797〜1858)の名所江戸百景にある「深川万年橋」の橋でした。



万年生きる?亀と萬年橋の萬年が掛けられています。

桶に吊るされた亀さんは放生会(ほうじょうえ 捕った魚や鳥獣を川や野に放して殺生を戒める儀式)の主人公です。

亀屋から客が買って川に放した亀を、亀屋が再び捕獲してまた新たに客に売っていたとか。



中央赤い部分が萬年橋(現在地)です。



祝日の昼下がり。閑散としていました。



松尾芭蕉(1644?〜1694)は若い頃に仕えていた武士・藤堂良忠(1642〜1666)が俳諧をたしなんでいた縁で俳諧を始めました。しかし、良忠が若くして亡くなったために31歳頃に江戸に出て、1680(延宝8)年に日本橋から深川の草庵に移り住みました。

この草庵は門人から贈られたバショウの株が生い茂ったことから芭蕉庵と呼ばれました。

芭蕉没後は武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが、幕末から明治にかけて消失しました。



深川を出発した芭蕉(45歳)は150日間かけて東北や北陸の名所を訪れる「奥の細道」の旅に出て、各所で句会を開き、多くの門人を獲得します。

1694年の9月、門人の之道(しどう)と珍碩(ちんせき)が不仲となり、その間を取り持つために大坂へ。若い珍碩は仲介を拒んで失踪。

9月4日から芭蕉は連日の句会で体調を崩し、発熱、頭痛、下痢に苦しみながらも門人たちの看病を受け、いったんは回復しますが、10月12日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷で亡くなります(50歳)。

2日後、遺言どおりに滋賀県の「義仲寺」…木曽義仲のお墓の隣に埋葬されました。

以前、義仲寺を訪れたことがありますがこじんまりしたお寺で、墓石も質素でした。



1917(大正6)年9月の台風後、江東区常磐一丁目から「場所遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、この地を東京府は「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。



芭蕉記念館から隅田川沿いに歩くこと数分、「芭蕉安心史跡展望庭園」がありました。



展望庭園からの眺めです。みぎは隅田川、左手は小名木川(おなぎがわ)です。奥の橋は「清洲橋」です。

小名木川は徳川家康が行徳(現在の千葉県市川市南部)の塩を江戸に送るために開削された川です。



庭園内の芭蕉像です。



展望庭園から歩いてすぐに、

「芭蕉稲荷神社」があります。

芭蕉記念館に展示されていた「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土した場所とされています。

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