京都御苑…蛤御門と清水谷家の椋、そして、道喜門
- 2020.08.29
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蛤御門は「新在家門(しんざいけもん)」と呼ばれていましたが、江戸の大火でそれまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、
“焼けて口開く蛤”にたとえて蛤御門と呼ばれるようになりました。
なお、蛤御門は明治初めまで現在よりも30m東にあり、南を向いて建てられていました。
※江戸の大火…1708年の「宝永の大火」、あるいは1788年の「天明の大火」等諸説あり。
1864(元治元)年、この門の周辺で長州藩と御所の護衛に当っていた会津や薩摩、桑名藩との間で激戦となりました。
白い穴は銃弾跡でしょうか?
蛤御門を東に歩くと、砂利道の真ん中に、
「清水谷家の椋(むく)」があります。この地には清水谷家があり、椋の木は樹齢300年と伝わります。
また、禁門の変(1864年)で、長州藩の来島又兵衛(きしままたべえ)がこの付近で討ち死にしたと云われます。
清水谷家は藤原北家閑院流・西園寺家の一門で公家の家格は羽林家です。
※藤原北家→藤原鎌足の孫・藤原房前(ふじわらのふささき 681〜737)が始祖。
閑院流(かんいんりゅう)→藤原道長の叔父・藤原公季(ふじわらのきんすえ 956〜1029)が家祖
清水谷家→鎌倉時代前期、西園寺公経の子・一条実有(いちじょうさねあり 1203〜1260)が家祖。
羽林家→公家の家格のひとつ。近衛少将・中将を兼ね参議から中納言(最高は大納言)に進むことができる武官の家柄
“清水谷家の椋”からさらに東へ、
京都御所の正門である「建礼門」があり、
“建礼門”の東に通称「道喜門(どうきもん)」があります。
ちまきで有名な川端道喜(かわばたどうき)は室町時代まで遡る老舗和菓子のお店です。
初代は蛤御門の近くで餅屋と御所の修理を営んでおり、その工事の資材を運び込むために作られた門です。
当時、朝廷は応仁の乱などの戦乱後で生活が困窮していました。
鳥羽の武士・渡辺進はみかねて第104代後柏原天皇(1462〜1526)のために毎朝、餅を届け始めます(2代目の娘婿から川端道喜と称しました)。
以降、川端家は代々天皇のためにこの門から毎朝食事(注・塩味のおはぎ)を運び、明治初期まで300年以上続きました。
ただ、第108代後水尾天皇(1596〜1680)の時代には朝食の前に餅を眺めるだけの形式的な儀式になっていきます。
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