冷泉天皇陵…多くの親族に先立たれた上皇

哲学の道を少し山側へ入ったところに、








第63代冷泉天皇(950~1011)陵があります。




第62代村上天皇の第二皇子として、生後2ヶ月で立太子。




967年、村上天皇が崩御されると18歳で即位されました(藤原実頼が関白として補佐)。




皇太子時代から、1日中蹴鞠を続けたり、清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座りこんだり、病で床に伏していた時、大声で歌を歌ったりと奇行が目立ったと




大江匡房(まさふさ)は書き記しています。








それらの奇行の振る舞いは冷泉天皇の異母兄・広平親王の祖父である藤原元方(888~953)が広平親王の将来が閉ざされたことで失望し、怨霊となり、祟ったのではと噂されました。




冷泉帝は容姿端麗な天皇と伝わります




しかし、2年余りで同母弟の円融天皇に譲位し、その後の上皇生活は42年にも及び、妻や7人の皇子女のうち6人に先立たれます。








2km弱ほど続く「哲学の道」は、1890年、琵琶湖疏水が完成した際に管理用道路として設置されました。




1922年、日本画家の橋本関雪、よね夫妻が400本の桜の苗木を植えました(最初に植えられた桜は10数本残るのみ)。








石畳が歩きにくく、つい横道にそれて歩いてしまいました。




途中、ヒメジョオン(またはハルジオン?)が一面に生い茂っていました。




調べるとヒメジョオンは1個体あたり、47,000以上の種子を宿し、その種子の寿命が35年と長いために驚異の繁殖力を持ち駆除が難しいとありました。

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