大通寺…実朝の妻

九条大宮下ルと、




「十六夜(いざよい)日記」の作者・阿仏尼(1222?~1283)の墓とされる”阿仏塚”のある、




「大通寺」が見えてきます。




大通寺は、甥の公暁(くぎょう 1200~1219 20歳)に暗殺された鎌倉幕府第3代将軍・源実朝(みなもとさねとも 1192~1219 28歳 )の菩提をとむらうために妻・本覚尼こと坊門信子(1193~1274 82歳)が「遍照心院大通寺」を建立しました。












鎌倉の寿福寺で出家し、京に戻っていた本覚尼は自邸(現南区八条町付近、六孫王神社の北側か?)とされる場所に建てましたが、明治45年に東海道線の移設工事により現在地に移転。




尼寺として栄え、実朝の母・北条政子も援助したと伝わります。








阿仏尼は大通寺で修行した尼僧でした。




30歳頃に藤原為家(1198~1275 藤原定家の三男)の側室となり、冷泉為相(1263~1328 冷泉家の祖)を産みました。




為家の没後に播磨の細川荘の相続をめぐり、正妻の子・二条為氏(1222~1286 実に41歳差の兄弟)と争い、




1279年、幕府に訴えるために鎌倉に下ります(十六夜日記はその時のことを100首以上の和歌とともに記す)。




裁決には8年の年月を費やし、阿仏尼は勝訴したことを知らずに、鎌倉で没したとも、京都へ帰った後に没したとも云われます。




息子の冷泉為相も度々鎌倉へ下り、訴える際には鎌倉における歌壇を指導。




また、為相の娘は鎌倉幕府第8代将軍・久明親王(父は第89代後深草天皇)に嫁ぎ久良親王(1310~?)を生んでいます。




為相は晩年、鎌倉に移住して将軍を補佐、同地で死去しました。





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