八咫烏と世阿弥

本殿の裏の小高い所にある50m足らずの細い道(=熊野古道)の中に八咫烏の立て札がありました。



八咫烏(やたがらす)は3本足の大きな鳥で日本サッカー協会のシンボルマークとなっています。(咫=あた。親指と人差し指を広げた長さで一咫は18cm。八咫は18cm×8=144cmですがここでは大きなの意)。一説には、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助(1878〜1906 29歳)の出身地の那智勝浦にある熊野那智大社のシンボル八咫烏から採ったといわれ、彫刻家・日名子実三(ひなごじつぞう 1892〜1945 54歳)がデザインし、1931(昭和6)年から採用されました。

八咫烏は「太陽の使者」であり、勝利に導くシンボルとして、日本をワールドカップに導き、優勝したい願いも込められています。

また、第1代神武天皇が日向(ひゅうが 今の宮崎県)を出て、瀬戸内海を東に進み、幾多の困難を経て大和の橿原宮で即位したのが紀元前660年(縄文時代?)とされていますが、熊野から大和まで導いたとされるのが八咫烏です。





新熊野神社は1374(または1375)年に観阿弥(1333〜1384 52歳)・世阿弥(1363?〜1453?)父子が足利義満(1358〜1408)の前で猿楽能を舞ったことから「能楽発祥の地」とされます。世阿弥12歳の時でした。

以降、義満の庇護のもとで順風満帆な日々が続きますが、治世が第6代将軍足利義教(1394〜1441 48歳)になると世阿弥の甥・音阿弥(1398〜1467 70歳)が重用されます。

世阿弥・元雅(?〜1432)親子を室町御所への出入り禁止、その上に義教は元雅の猿楽主催権を奪い、音阿弥に与えます。京都での仕事もなくなり、元雅は旅先で客死。その後、義教は世阿弥に音阿弥に家元を継がせるよう強要しますが世阿弥が抵抗したため、将軍に謀反を起こした重罪人として佐渡に流罪となります(世阿弥 72歳)。

1441(嘉吉元)年に義教が守護大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺されると配流を解かれ、晩年は娘夫婦と暮らします。

世阿弥が能を大成させたと教科書には載っていますが、佐渡に流罪となっていたとは知りませんでした。



泉涌寺商店街で70有余年続く末廣屋さんで涼しげな和菓子(1つ310円)を買いました。ほんのり柚?の味が沁みました。

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