京都御苑…鷹司家のお姫様たち
- 2020.09.23
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父は第13代・鷹司信房
1625年に3代将軍の徳川家光(1604~1651)と婚礼。
しかし、結婚当初から家光とは非常に険悪な関係であり、ほどなく離縁されて大奥から追放。
長期にわたり、吹上御殿に設けられた”中の丸”邸宅で軟禁生活を送ることになります。

〇鷹司信子(1651~1709)
父は第15代・鷹司教平
1664年に上野国(こうずけのくに 現在の群馬県)館林藩主・徳川綱吉(1646~1709)と結婚。
1680年に綱吉の将軍就任より大奥に入りますが、綱吉の生母・桂昌院とは不仲であったと伝わります。
また、寵愛を受けていた”お伝の方”を綱吉から引き離すために、
宮中で学問に秀でいた常磐井局(ときわいのつぼね のちの右衛門佐)を招き、上臈御年寄として大奥を取り仕切らせたり、公家の娘を側室として京から呼び寄せて対抗しました。
1709年、綱吉が亡くなると1ヶ月も経たずに信子も死去。
死因は綱吉同様に麻しんと云われますが、綱吉の側近・柳沢吉保の子を養子にするのを阻止するために、信子お付の伊豆局と2人で綱吉を殺害して自害したという俗説があります。
なお、信子の妹(一説には教平の妹?)・鷹司房子(1653~1712)は第112代霊元天皇(れいげんてんのう 1654~1732)の中宮。

〇鷹司繋子(たかつかさつなこ 1798~1823 )、祺子(やすこ 1811~1847)
父は第22代・鷹司政熙
姉の繋子が死去後は祺子が第120代仁孝天皇の女御となります。
繋子は第一皇子、皇女を出産しますが死去。
祺子も第四皇女を出産しますが夭折。
※仁孝天皇(1800~1846)の15人の子のうち12人が3歳までに死去されます。⇒
成人したのは、
第121代孝明天皇(1831~1866)
淑子内親王(1829~1881)
親子内親王(1846~1877) 第14代徳川家茂正室
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