🐁悲劇の皇后…定子

泉涌寺の総門をくぐり、参道をしばらく歩き、



今熊観音寺に折れる道を進み、



ここがポイントでした。

泉涌寺霊園と刻まれた道しるべの道を



歩くこと10分余り、



霊園の方向ではなく、そのまま進みます。

マップで検索してもちんぷんかんぷん(いつもです😖)!

本当にあるのかな?と半信半疑の中、

ようやく、鳥戸野陵の石段が見えてきました。



歩きにくい石畳の道の先に、



ひっそりと、ただ1人、



第66代一条天皇皇后・藤原定子(977~1001 25歳)の御陵がありました。

[ 990年] 14歳で3歳年下の一条天皇に入内

[ 995年]父・関白藤原道隆(道長の兄)死去

[996年] 頼みとする兄・伊周(これちか 974~1010)は事件を起こし捕らえようと検非違使がやってきた混乱の中、出産のために里帰りしていた定子は突然、髪を切り出家。

第1皇女・脩子内親王(997~1049)→予定日を2ヶ月遅れで出産。

[997]一条天皇により宮中に呼び戻されますが道長より嫌がらせを受けるようになります。

この年に内裏が焼失しますが「出家したのに宮中に戻った定子さまのせいだ!」と道長と親しい学者が告げます。



[999年] 第1皇子・敦康親王(999~1019 21歳)出産。

藤原道長長女・藤原彰子(988~1074 87歳)、8歳年上の一条天皇に12歳で入内→定子とは11歳年下

[1000年]道長は「出家した定子さまでは中宮の業務に支障をきたす為、もうひとり中宮を立てるべき」と主張。まもなく、彰子中宮(皇后)となる。

1001年第2皇女・媄子内親王(1001~1008 8歳)を出産。

しかし、定子は媄子(びし)内親王を産んだ翌朝亡くなられます(享年25歳)。

定子に仕えていた清少納言は最期まで付き添ったと云われます。



清少納言は宮中を去り、再婚した夫の赴任先の摂津へ移住しますが、2年ほどで京に戻り、定子の墓所・鳥辺野陵の近くに居を構え、再び枕草子の執筆を再開したと伝わります。

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