百々橋から小川通を北へ。

堀川寺之内通を東に入り、しばらく歩くと石が置かれていました。

かつてこの場所には南北に小川が流れていました。

応仁・文明の乱(1467〜1477)では百々橋(どどばし)から一条戻橋(いちじょうもどりばし)までの一帯が西軍の山名方と東軍の細川方との主戦場となりました。



小川は1965(昭和40)年に埋め立てられましたが、この礎石は百々橋の橋脚を支えていた4基のうちの1基です。



他に洛西ニュータウンの竹林公園と室町小学校にも礎石が残されています。

礎石の場所から小川通を上ルと右手に「千利休居士遺蹟不審庵」と書かれた石碑がありました。



茶道・表千家「不審庵」です。

千家は千利休(1522~1591)→利休の養子・少庵(1546〜1614 後妻の連れ子)→宗旦(少庵と利休の娘・お亀との子)

と続きます。

少庵は利休の切腹後は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられましたが1594(文禄3)年、徳川家康らのとりなしで京に戻り、千家を興して息子・宗旦(1578〜

1658)の後見に徹しました。

宗旦の子息たちは

長男・宗拙→父と折り合いが悪く早くに家を出たとされます。

次男・宗守は武者小路家

三男・宗左は表千家(不審庵)

四男・宗室は裏千家(今日庵)は

を興します。

ちなみに裏千家第16代家元夫人は千容子(せんまさこ 1951〜)氏は三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと 1915〜2016 昭和天皇の弟)親王の第2女子です。

不審庵前のお店です。



その隣には高価な茶道具のお店でした。



不審庵の北隣には裏千家「今日庵」があります。

数十年前、小川通を初めて歩いた時、張り詰めた空気が漂っていました。

今回は元皇族の婚家先だからでしょうか?警備の方がおられて、門前の写真を撮っていると「 写真を撮りましょうか」と気さくに声をかけて頂きました。

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